小澤征爾さんのご逝去で、私の檀家寺の秋田県横手市の正伝寺が、かつて、2002年の夏、小澤さんとロストロポービッチが「CARAVAN2002」で訪れた、ということで、改めて注目を集めているようだ。
なぜ小澤さんが正伝寺に?というのは謎なのだが、どうやら、当初は岩手県遠野市のお寺が候補地だったらしい。
その訪問予定が事前に漏れ、遠野の現地で大騒ぎになってしまったので、何気なさを求める小澤さんの意図に反しかねないと、急遽、前日予定を変更。
8月9日に、横手市役所文化振興課の助けも借り、高速道を利用してのインターの近くにあった正伝寺へ。ということらしい。
なお、岩手県でのキャラバンは、8月6日岩手県立博物館 8月7日青山養護学校で行われたらしい。
その時の様子は、このブログ
「キャラバン・コンサート2002」
に詳しい。
何分にも、当時のお寺の住職もすでに他界されているので、詳しいことはわからないのだが、実態は、まことに偶然の訪問だったようだ。
聴衆のなかには、どこからか聞きつけた音楽関係者もおられたようで、そのなかには、横手出身で世界でご活躍のファゴット奏者冨永芳憲さんもおられたという。
参考「音楽と出合うところはどこだろう?」
上記ブログの中で、冨永さんは「前日夜に現スタッフの憲子さんから情報を得て」と書かれているが、その憲子さんとは、おそらく横手の「バロック音楽ひろめたい隊」「秋田オルガンかわら版の会」の佐々木憲子さん(2022年9月ご逝去)のことなのだろう。
こうして、小澤さんたちご一行(小澤 征悦さんもご同行のようだった)は、正伝寺での演奏を終え、帰りの昼飯に、近くにある秋田ふるさと村で、好物の蕎麦?を食べられ、帰路につかれたようだ。
当時、小澤さんを歓迎した白梅保育園の園児たちは、すでに、成人を過ぎていることだろう。
素晴らしい一生の宝物的な経験をしたことだろう。
ちなみに、のちに、2003年1月5日(日)(NHK 21:15~22:30)のNHKスペシャル「小澤征爾、魂の響きを伝える」(真価を問う東北キャラバン)でこの時の模様は伝えられた。
そして、2015年2月27日のNHK朝の情報番組「あさイチ」に小澤征爾さんが生出演し、この「みちのくキャラバン」のことについて、ビデオを交えながら、当時の有働由美子さんらと、対談している。
なお、以下は余談になるが
(小澤征爾さんと成城学園と秋田出身の柴田勝先生との、ごくごく細い関係)
このように、小澤征爾さんにとっては、全く御縁のなかった当地への偶然のご訪問となったわけだが、ごくごく細いご縁をたどるとすれば、小澤さんが高校1年生の時に桐朋学園の高校へと転校される前に在籍されていた成城学園との関係だ。
小澤征爾さんが高校一年生のときに桐朋学園女子高校音楽科へ転校(1952年)するまで中学(1948年4月入学)から高校(1951年入学)まで在籍していた成城学園に、柴田勝先生という方がおられた。
この先生が横手のご出身で、当時、秋田県教育委員会から、成城に派遣され、派遣教員として、成城の澤柳先生が掲げる全人教育(ドルトンプラン)実現に寄与された。
さかのぼるが、成城には、1929(昭和4)年から1933年あたりに「成城事件」なる小原国芳(主事)さんと沢柳政太郎(校長)さんとの分裂騒ぎがあったが、柴田勝さんは、そのあとも成城に残り続け、カリキュラムの修復など混乱収支に当たられたことは、
「「ことばの教育」としての英語教育 ―1930 年代における成城小学校の英語教育に学ぶ―」(谷脇由季子)
にも記されている。
柳田国男先生とのご親交もあったようだ。
柳田さんの『炭焼日記』には、随所に、柴田勝さんとの対話が出てくる。
また、「『日本のむかし話』1979 年10 月 ポプラ社 1.2」には、柴田勝先生は、「解説 昔話について」「解説 柳田国男先生のことなど」との一文を寄せている。
柳田国男さんは、晩年の昭和32年から亡くなる一年前の36年まで、毎週のように、散歩がてら、柴田勝さんの家にに立ち寄ったという。
柴田勝先生は、戦後GHQ占領下のもとで、「柳田社会科」(今でいう郷土学とでもいうべきものか?)または「柳田国語」実現のために、柳田さんの「民俗研究所」の一員として、文部省との協議にも当たられていた。
この経緯については、地祇のブログ記事にも詳しい。
「史心をもつということ [柳田国男の昭和]」
参考
「成城学園初等学校における「柳田社会科」 の実践とその廃止」
https://ynu.repo.nii.ac.jp/record/5066/files/25-33.pdf
また、柴田勝先生は、戦前から「幼小連携」の教員方針を唱えられ、そして現場で実践されたという。
その内容については、下記の資料に詳しく書かれている。
「成城学園における「低学年教育」の成立とその思想」
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsspf/34/0/34_41/_pdf/-char/ja
戦時中の成城の学童疎開先に秋田県の六郷町が成城の疎開先になったというのも、柴田先生のお力添えがあってのことだったのか?と想像する。
ちなみに、柴田勝先生は、柳田国男さんの求めに応じて、小学校5、6年生向きの「疎開読本」をつくられたことがある。
完成したのは、昭和20年9月であり、実際書店に並んだのは、11月となり、そのころは疎開していた子供たちが返ってくるころになり、当初の柳田さんの狙いは外れてしまったのはなんともではあった。
柴田勝先生は、成城小学校の機関誌『教育問題研究』46 号の「学園便り」のなかで、次のように回顧されている。
「「楽しかった 2 年間」 柴田 勝
諸君との 2 年間の学生生活は、全く楽しいものであった。私が成城小学校の教師として参加したのは、昭和 5 年 4 月(1930)である。「教育の研究のために、私立成城学園に出向を命ずる」というのが、私が秋田県からもらった辞令であった。
毎日の学校生活は、それこそ遊びの研究みたいなものであった。香川県から来て、理科を担当していた松原という先生は私に言った。「こんな曇り空に、いかにも楽しそうに子供たちとかけめぐってあるく、君をみると、羨ましい限りだが、曇り空の多い東北から来たせいかね」と。
昭和 7 年 3 月、諸君は卒業していったが楽しく遊んだ諸君に学習時間をも遊びにふりむけてあそんだことについて、私は今もよかった、良いことをしたと、思っている。
諸君の仲間の中から、多くの戦死者や病死者が出ている。それらの人々に、私は、「楽しかったね」と言って、冥福を祈りたいと思う。」
また、伝説的なピアニストの原口歌さん(南方研究の第一人者である原口竹次郎さんの子女)は、回顧録の中で柴田勝先生について次のように語られている。
「私が成城で御世話になったのは、5 年生の僅か 1 年足らずでしたが、今更乍ら、学校と柴田勝先生はじめ諸先生方のすばらしさが身に沁みて感動を覚えます。一番心に残るのは、やはり、柴田先生のやさしさと慈愛の深さです。「人生とは?」「人間とは?」「芸術とは?」たとえ「お料理とは?」と聞かれたら、私はそれは「愛」と答えます。そして、音楽家としては、「技術より、人間性が芸術の原点」だと思います。このような精神の境地に至ったのも、ひとえに柴田先生と皆さまのお陰です。先生はじめすべての御友達の御多幸を心から祈り申し上げて居ります。」
出典「ピアニスト 原口歌の伝記」から
https://core.ac.uk/download/pdf/286942734.pdf
柴田勝先生は、昭和24年に成城学園小学校の校長になり、その時に籍が、それまでの秋田県教育委員会からの出向という立場から、成城学園へと籍が移ったとのことである。
退職後も、八十歳すぎるまで現場に立ち、武蔵野東小学校で教員生活の最後を迎えたとのこと。
以上、成城学園と当地から成城の教員となられた柴田勝さんについて話したが、実は私も高校は成城で、そのような意味でも、小澤征爾さんには、兄貴のような親しみを感じていた。
成城も音楽には、関心の高い学校で、同級の女の子が、「私、昨日はレクイエム歌ってきたの」みたいな話を普通にしているような学校だった。
もし、「世界の小澤征爾」さんの少年期の精神的土壌のなかに、4年間すごされた成城学園の自由教育の芽が、いくらかでも根付き、その後の成果を招いていたとすれば、柴田勝先生も、後輩の私も、うれしいことだと思う。
参考
当日のプログラムは下記の通り
(付帯している音源で、①は、チェロのみ、本人ロストロ・ボービッチです。 ②は、指揮、チェロとも、本人です。③は、別の演奏者によるものです。)
①サン・サーンス「チェロ協奏曲第1番イ長調」
②チャイコフスキー「ロココ風の主題による変奏曲イ長調」
③チャイコフスキー劇音楽『雪姫』より「メロドラマ」(指揮 ロストロポービッチ)