笹山登生のウォッチ&アナライズ –


2009年10月3日

H1N1新型インフルエンザ・ワクチン接種回数は、10歳以上は1回接種にすべし

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:32 AM

アメリカでは、すでに、「フル・ミスト」という鼻噴霧吸入式のインフルエンザワクチンが各医療機関に到着しており、いよいよ、来週早々には、注射型のワクチンが、続いて到着する段取りになっているという。

ここで、注射の回数なのだが、9歳以下の、これまでにワクチン注射をしたことがない年代には、2回の接種、10歳以上には、1回の接種で済ませるという。

これは、季節性用ワクチンについても、新型用ワクチンについても、同様の対応だという。

また、9月21日に発表された米国立アレルギー感染症研究所の臨床試験結果においても、「健康な10~17歳では成人同様、1回の接種、9歳以下では2回の接種で免疫効果」との発表がされている。

このアメリカに比し、ワクチンの供給が遅れそうな日本だが、ここに来て、低所得者用の接種費用の地方負担をめぐって、大阪府の橋下知事が、厚生労働省が事業費900億円の半額負担を地方に求めていることについて、「一方的に地方に負担を要求するのは、これまでの国と地方の構造と変わらない。地域主権を掲げる民主党のうそつき第1号だ」と批判しているようだ。

低所得者向け接種費用軽減策事業費の2分の1を国、4分の1ずつを都道府県と市町村が支出し、地方負担分は地方交付税で補填するという国の方針に対して、全国知事会などが、国が全額措置するよう求めていることを受けての橋下知事さんのご発言のようである。

厚生労働省は9月18日、専門家との意見交換会を開き、新型インフルエンザのワクチンの接種回数が1回で済むかどうか検討する方針を明らかにしたというが、これらの地方負担をめぐるいざこざで、接種が遅れるようなことがあってはならないのだから、厚生労働省は、アメリカ並みの10歳以上1回接種の方向で、急速に対応を決められたらいかがなのだろうか。

年内に用意できる国内産ワクチンは2回接種分として最大約1700万人分というのだから、これを「10歳以上は1回接種」との方向で行けば、年内接種の対象人員もほぼ倍増できるし、地方の負担軽減にも資することになるのだと思うのだが。

私は、それ以前に、どうも、今の状況だと、H1N1自体が、当初予想されていた第二波を形成することなく、季節性インフルエンザの世代交代となって、終わってしまうのではないかと、想像している。

となると、接種二回にこだわっていると、接種のタイミングも逃すことになり、結果、膨大な新型ワクチン在庫を残すことになってしまうのではないかと、懸念しているのだが。

とにかく、民主党政権になって、官僚の皆様の萎縮のせいか、いっちゃ悪いが、政策実施のスピードが極度に落ちているのが気になるところだ。

最後に、ちょっと気になるニュースが入っている。

カナダのブリティッシュコロンビアからのニュースなのだが

「65歳以上のかたに、季節性用のワクチンを接種すると、かえって、H1N1インフルエンザにかかりやすくなるので、季節性用インフルエンザ・ワクチンの接種は、2010年になるまで、待ったほうがいい。」との研究成果がthe B.C. Centre for Disease Controlから発表されたとのことだ。

これは、先に私のブログ記事「新型インフルエンザ・ワクチン投与で、抗原原罪を懸念する声が専門家の間にある。」で書いた抗原原罪の問題が絡んでいるようだ。

これらの研究を受けて、カナダのブリティッシュ・コロンビアでは、季節性インフルエンザ用ワクチンの接種を、65歳以上については、2010年まで延期するようにしたという。

このブリティッシュコロンビアの方向には、Alberta, Saskatchewan, Ontario, Quebec 、Nova Scotia の他の州も追随する方針だという。

参考「Study: Seasonal Flu Vaccine Can Hike Risk of Contracting H1N1 Virus
「The Truth about the Flu Shot
Seasonal flu shot limited to seniors

2009年10月2日

広島地裁鞆の浦景観訴訟判決のポイント

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:35 AM

昨日の鞆の浦景観訴訟広島地裁判決には、環境権にかかわる、いくつかの点で、画期的な判断がされているように思えます。

以下に、私なりの評価すべきポイントと、鞆の浦景観訴訟の判決要旨を掲げておきます。
.

判決についての評価すべきポイント

①「鞆の浦の景観は、美しいだけでなく、歴史的、文化的価値を有し、近接する地域内に住み、その恵沢を日常的に享受する住民の景観利益は法律保護に値する。
公有水面埋立法は、景観利益を保護に値する個別利益として含むと解釈される。
住民は景観による恵沢を日常的に享受しており、法律上の利益を有する。」

これはかなり踏み込んだ見解ですね。

公有水面埋立法の4条3項-2の「其ノ埋立ニ因リテ生スル利益ノ程度カ損害ノ程度ヲ著シク超過スルトキ 」における利益の比較衡量において、景観利益の損傷をマイナスでカウントするという解釈のように見えます。

また、環境権の利益の比較衡量において、反射的利益にとどまらない、景観利益を比較衡量にカウントしたという点も、画期的です。

以下の判決の部分もポイントですね。

「公有水面埋立法及びその関連法規は、法的保護に値する、鞆の景観を享受する利益をも個別的利益として保護する趣旨を含むものと解するのが相当である。したがって、原告らのうち上記景観利益を有すると認められる者は、埋め立て免許の差し止めを求めるについて、行訴法所定の法律上の利益を有するものであるといえる。」

「公有水面埋立法は、景観利益をも、個別的利益として保護する」趣旨に立っているという解釈ですね。

では、景観利益を享受しうるのはだれか?というところまでおし進めていくと、非居住者の景観権も、認知されうる判断となり、さらには、原告適格判断のゾーン(使用価値を持たない非居住者の原告適格性如何)も広がりうる解釈となりえます。

ただ、このように環境権の外延としての権利を拡大しすぎていくと、かえって、環境権の概念をあいまいにしてしまうという二律背反性が生まれ得ます。

環境権の外延性拡大は、一方で、国民の他の分野における基本権との衝突をも招く結果となりうるのです。

②「景観の価値は私法上保護されるべき利益であるだけでなく、瀬戸内海における美的景観を成すもので、文化的、歴史的価値を有する景観としていわば国民の財産ともいうべき公益だ。」

この解釈も画期的ですね。

判決のここの部分「景観の恵沢を享受する利益(景観利益)は、私法上の法律関係において、法律上保護に値すると解せられる。」が特にポイントです。

川や海の公有水面の利用権である「地先権」には、私法上保護されるべき利益として「景観の恵沢を享受する利益(景観利益)」をも含む、という解釈のように見えます。

コモンズとしての権利が認められることにつながりうる解釈とも見えます。

これまでは、私権としての環境権をもって、民事訴訟に持ち込んだ場合、公権力の公共益と、原告個人の私的利益との利益の比較衡量によって、原告が、その環境被害にたえうる受忍限度を超えなければ、裁判所による差止め請求権・損害賠償請求権の認容は、なりませんでした。

今回の判決で見る限り、単なる「公権力での公共益 対 反射的利益としての私的利益との対立」ではなく、「公権力での公共益 対 「私法上保護されるべき利益の一部としての景観利益」との対立」という関係での利益の比較衡量が可能になりうる、夜明けの判決ともいえます。

また、環境権が公共信託にまで、およんでいることを認めた画期的な判決とも言えそうです。

これらについては、こちらの私のサイト記事「憲法論議に環境権を明確に位置づけるために」も参考にしてみてください。

以下は鞆の浦景観訴訟の判決要旨です。

◆主文

広島県知事は、公有水面の埋め立てを免許する処分をしてはならない。

◆裁判所の判断

景観は、良好な風景として人々の歴史的または文化的環境を形作り、それが豊かな生活環境を構成する場合には、客観的価値を有するものというべきである。客観的価値を有する良好な景観に近接する地域内に居住し、その恵沢を日常的に享受している者は、景観が有する客観的な価値の侵害に対して密接な利害関係を有するものというべきであり、景観の恵沢を享受する利益(景観利益)は、私法上の法律関係において、法律上保護に値すると解せられる。

さらに進んで、上記のような利益を有する者が、行政訴訟法の法律上の利益をも有する者といえるか否かについて検討する。

公有水面埋立法及びその関連法規は、法的保護に値する、鞆の景観を享受する利益をも個別的利益として保護する趣旨を含むものと解するのが相当である。したがって、原告らのうち上記景観利益を有すると認められる者は、埋め立て免許の差し止めを求めるについて、行訴法所定の法律上の利益を有するものであるといえる。

鞆の景観の価値は、私法上保護されるべき利益であるだけでなく、瀬戸内海における美的景観を構成するものとして、また、文化的、歴史的価値を有する景観として、いわば国民の財産ともいうべき公益である。しかも、本件事業が完成した後にこれを復元することはまず不可能となる性質のものである。これらの点にかんがみれば、本件事業が鞆の景観に及ぼす影響は、決して軽視できない重大なものであり、瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)等が公益として保護しようとしている景観を侵害するものといえるから、これについての政策判断は慎重になされるべきであり、そのよりどころとした調査及び検討が不十分なものであったり、その判断内容が不合理なものである場合には、埋め立て免許は、合理性を欠くものとして、行訴法にいう裁量権の範囲を超えた場合に当たるというべきである。

(1)道路整備効果

調査は不十分なものといわざるを得ない。県知事がコンサルタントの推計結果のみに依拠して埋め立て架橋案の道路整備効果を判断することは、合理性を欠く。

(2)駐車場の整備

駐車場確保を目的として本件埋め立てをしようとするのは、鞆の景観の価値をあまりに過小評価し、これを保全しようとする行政課題を軽視したものというべきである。

(3)小型船だまりの整備

今あるスペースを最大限有効活用するための方策を検討し、それでも、なお用地が不足するかどうかということについて検討するべきであると考えられるが、このような作業はなされていない。

(4)フェリーふ頭

行政当局としては、まず、湾の埋め立てによらないで、フェリーふ頭を整備する方策について調査、検討すべきであるといえるが、このような調査、検討したことをうかがわせる証拠はない。

(5)防災整備

計画道路が災害時の交通ルートとして活用される場合があるとはいえるものの、既にある避難地や交通路と比較して、格段に避難等の効果が増すとはいえない。

(6)下水道整備

埋め立てによる副次的効果と主張しているのであり、埋め立ての必要性の直接の根拠としているものでもない。

県知事が本件埋め立て免許を行うことは、原告らのその余の主張について判断するまでもなく、行訴法所定の裁量権の範囲を超えた場合に当たるというべきである。よって、行訴法所定の法律上の利益を有していると認められない原告19人の各訴えをいずれも却下し、その余の原告らの請求は、理由があるから、これらを認容することとし、主文のとおり判決する。

鞆の浦景観訴訟広島地裁判決のポイント

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:34 AM

昨日の鞆の浦景観訴訟広島地裁判決には、環境権にかかわる、いくつかの点で、画期的な判断がされているように思えます。

以下に、私なりの評価すべきポイントと、鞆の浦景観訴訟の判決要旨を掲げておきます。
.

判決についての評価すべきポイント

①「鞆の浦の景観は、美しいだけでなく、歴史的、文化的価値を有し、近接する地域内に住み、その恵沢を日常的に享受する住民の景観利益は法律保護に値する。
公有水面埋立法は、景観利益を保護に値する個別利益として含むと解釈される。
住民は景観による恵沢を日常的に享受しており、法律上の利益を有する。」

これはかなり踏み込んだ見解ですね。

公有水面埋立法の4条3項-2の「其ノ埋立ニ因リテ生スル利益ノ程度カ損害ノ程度ヲ著シク超過スルトキ 」における利益の比較衡量において、景観利益の損傷をマイナスでカウントするという解釈のように見えます。

また、環境権の利益の比較衡量において、反射的利益にとどまらない、景観利益を比較衡量にカウントしたという点も、画期的です。

以下の判決の部分もポイントですね。

「公有水面埋立法及びその関連法規は、法的保護に値する、鞆の景観を享受する利益をも個別的利益として保護する趣旨を含むものと解するのが相当である。したがって、原告らのうち上記景観利益を有すると認められる者は、埋め立て免許の差し止めを求めるについて、行訴法所定の法律上の利益を有するものであるといえる。」

「公有水面埋立法は、景観利益をも、個別的利益として保護する」趣旨に立っているという解釈ですね。

では、景観利益を享受しうるのはだれか?というところまでおし進めていくと、非居住者の景観権も、認知されうる判断となり、さらには、原告適格判断のゾーン(使用価値を持たない非居住者の原告適格性如何)も広がりうる解釈となりえます。

ただ、このように環境権の外延としての権利を拡大しすぎていくと、かえって、環境権の概念をあいまいにしてしまうという二律背反性が生まれ得ます。

環境権の外延性拡大は、一方で、国民の他の分野における基本権との衝突をも招く結果となりうるのです。

②「景観の価値は私法上保護されるべき利益であるだけでなく、瀬戸内海における美的景観を成すもので、文化的、歴史的価値を有する景観としていわば国民の財産ともいうべき公益だ。」

この解釈も画期的ですね。

判決のここの部分「景観の恵沢を享受する利益(景観利益)は、私法上の法律関係において、法律上保護に値すると解せられる。」が特にポイントです。

川や海の公有水面の利用権である「地先権」には、私法上保護されるべき利益として「景観の恵沢を享受する利益(景観利益)」をも含む、という解釈のように見えます。

コモンズとしての権利が認められることにつながりうる解釈とも見えます。

これまでは、私権としての環境権をもって、民事訴訟に持ち込んだ場合、公権力の公共益と、原告個人の私的利益との利益の比較衡量によって、原告が、その環境被害にたえうる受忍限度を超えなければ、裁判所による差止め請求権・損害賠償請求権の認容は、なりませんでした。

今回の判決で見る限り、単なる「公権力での公共益 対 反射的利益としての私的利益との対立」ではなく、「公権力での公共益 対 「私法上保護されるべき利益の一部としての景観利益」との対立」という関係での利益の比較衡量が可能になりうる、夜明けの判決ともいえます。

また、環境権が公共信託にまで、およんでいることを認めた画期的な判決とも言えそうです。

これらについては、こちらの私のサイト記事「憲法論議に環境権を明確に位置づけるために」も参考にしてみてください。

以下は鞆の浦景観訴訟の判決要旨です。

◆主文

広島県知事は、公有水面の埋め立てを免許する処分をしてはならない。

◆裁判所の判断

景観は、良好な風景として人々の歴史的または文化的環境を形作り、それが豊かな生活環境を構成する場合には、客観的価値を有するものというべきである。客観的価値を有する良好な景観に近接する地域内に居住し、その恵沢を日常的に享受している者は、景観が有する客観的な価値の侵害に対して密接な利害関係を有するものというべきであり、景観の恵沢を享受する利益(景観利益)は、私法上の法律関係において、法律上保護に値すると解せられる。

さらに進んで、上記のような利益を有する者が、行政訴訟法の法律上の利益をも有する者といえるか否かについて検討する。

公有水面埋立法及びその関連法規は、法的保護に値する、鞆の景観を享受する利益をも個別的利益として保護する趣旨を含むものと解するのが相当である。したがって、原告らのうち上記景観利益を有すると認められる者は、埋め立て免許の差し止めを求めるについて、行訴法所定の法律上の利益を有するものであるといえる。

鞆の景観の価値は、私法上保護されるべき利益であるだけでなく、瀬戸内海における美的景観を構成するものとして、また、文化的、歴史的価値を有する景観として、いわば国民の財産ともいうべき公益である。しかも、本件事業が完成した後にこれを復元することはまず不可能となる性質のものである。これらの点にかんがみれば、本件事業が鞆の景観に及ぼす影響は、決して軽視できない重大なものであり、瀬戸内海環境保全特別措置法(瀬戸内法)等が公益として保護しようとしている景観を侵害するものといえるから、これについての政策判断は慎重になされるべきであり、そのよりどころとした調査及び検討が不十分なものであったり、その判断内容が不合理なものである場合には、埋め立て免許は、合理性を欠くものとして、行訴法にいう裁量権の範囲を超えた場合に当たるというべきである。

(1)道路整備効果

調査は不十分なものといわざるを得ない。県知事がコンサルタントの推計結果のみに依拠して埋め立て架橋案の道路整備効果を判断することは、合理性を欠く。

(2)駐車場の整備

駐車場確保を目的として本件埋め立てをしようとするのは、鞆の景観の価値をあまりに過小評価し、これを保全しようとする行政課題を軽視したものというべきである。

(3)小型船だまりの整備

今あるスペースを最大限有効活用するための方策を検討し、それでも、なお用地が不足するかどうかということについて検討するべきであると考えられるが、このような作業はなされていない。

(4)フェリーふ頭

行政当局としては、まず、湾の埋め立てによらないで、フェリーふ頭を整備する方策について調査、検討すべきであるといえるが、このような調査、検討したことをうかがわせる証拠はない。

(5)防災整備

計画道路が災害時の交通ルートとして活用される場合があるとはいえるものの、既にある避難地や交通路と比較して、格段に避難等の効果が増すとはいえない。

(6)下水道整備

埋め立てによる副次的効果と主張しているのであり、埋め立ての必要性の直接の根拠としているものでもない。

県知事が本件埋め立て免許を行うことは、原告らのその余の主張について判断するまでもなく、行訴法所定の裁量権の範囲を超えた場合に当たるというべきである。よって、行訴法所定の法律上の利益を有していると認められない原告19人の各訴えをいずれも却下し、その余の原告らの請求は、理由があるから、これらを認容することとし、主文のとおり判決する。

2009年10月1日

井金融相のモラトリアム構想の意図の根底は尊重すべき

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:40 AM

亀井金融担当大臣のモラトリアム(ローン返済猶予)構想が波紋を呼んでいるが、金に困っていなさそうなテレビ・コメンテーターのもっともらしい薀蓄には、ちょっと、辟易するものさえ感じてしまう。

私は、モラトリアム・スキームの詳細の検討についてはしっかりやっていただきたいが、やはり、亀井金融担当大臣が今回の提案をするにいたった意図の根底には尊重すべきものがあると思う。

それは、竹中金融担当大臣の時に、決済機能の回復のみを旗印にして、金融機関をBIS規制遵守で萎縮させた結果、末端借入者に何が起こったのか、ということについての時代検証の必要性でもある。

マクロ経済において、地価が下がり、担保割れがおきれば、担保対象不動産を処分しても、残債が残る。

金融機関にとっても、多少の返済猶予の貸し出し条件変更に応じたほうが、結果回収できる実入りは多かったはずである。

しかし、BIS基準に基づく金融庁の検査強化に恐れて、金融機関は、表面上の不良債権をいかに少なくするかに没頭し、貸し剥がしによって、まだ生きるかもしれない借り手をどうしようもない状態にしていったのである。

親鶏を早々と殺しておいて、卵で返せ、と、迫るのとおんなじ、無茶な論理である。

つまり、銀行は、自己資本比率維持のため、その「分母」となる総資産の圧縮を、不良債権の売却、貸し渋り、貸し剥がしによって、圧縮させていったのである。

地価が下がり、デフレが進行すれば、既往貸出の無担保比率は、当然向上する。

しかし、その無担保比率の向上自体が、銀行に必要とされる自己資本の増大を招いていく。

追加担保徴求が不可能であれば、銀行としては、分母を切っていくしかなくなってしまう。

公的資金注入には、名乗りを上げる勇気が当時の金融機関になかったことが、これらの末端借入者へのしわ寄せを一層よんだと見ていいだろう。

つまり、マクロでの地価下落分が、玉突き衝突的に、末端の借り手の残債となって、残ったという構図である。

今回の亀井提案は、あまりにダイレクトすぎる提案であるとはしても、もっと、いろいろなポリシーミックスをすることによって、今、モラトリアム提案に提示されているいろいろな懸念は払拭できるものと思われる。

たとえば、今回のアメリカの金融危機で、なるほどなと思ったのは、アメリカは、金融機関の必要であるないにかかわらず、当初の段階で、公的資金注入を全金融機関ほとんどに強制的に割り当てたことである。

このことで、公的資金を受ければ信用収縮の風評被害が出るという、金融機関の懸念が払拭されたのである。

それと、必要と思われるのは、残債を損きり・免責することで、金融機関がメリットを受けられるような、インセンティブを、マクロ的に政策のなかに盛り込むことである。

現在、金融機関は、回収不能債権を系列のサービサーに投げることによって、損きりが確定し、整理損や貸付金の否認分を繰り延べ税金資産にカウントすることで、未収還付事業税を納入し、負債整理の決着が付くことによって、税効果会計による高率の還付加算金つきで返ってくるというメリットが得られる。

金融機関のサービサーへの債権譲渡の際の卸値は、ものによっては、10分の一以下、平均、5%程度といったもののようである。

しかし、その売却債権の仕入れ値は、一切、金融消費者たる債務者には、明らかにされていない。

債権譲渡された債権者からは、そ知らぬ顔で金融消費者たる債務者への請求が来る。

まるで、中古のジャンク同様のテレビをそ知らぬ顔で、新品の値段で売ってくるようなものだ。

ここにおいても、債務者は、デフレの最後のつじつまあわせとなってしまっている。

債務者は、金融消費者であるという視点が、ここでは、すっぽりぬけ落ちているのである。

弱い金融消費者に対するデフレのドミノ的転嫁は、ここでもおこっている。。

そこで、今回の亀井提案を、より、精緻な形で政策に生かすとすれば、マクロ的に言えば、金融消費者としての債務者のセーフティーネットをどのようにきづきあげていくのか、ということになる。

ちょっと考えただけでも、金融機関が損きりをしやすい税制面での環境作り、金融庁の金融機関検査基準の緩和、金融機関の金融消費者としての借り手に対する、サービサーの仕入れ値の公表の義務付け、譲渡債権の仕入原価公開主義に基づいた債権請求の遵守、などなどが必要になってくるものと思われる。

ブラックスワンの著者で有名なナッシム・タレブ氏は、次のようなことを言っている。

「これまで目を隠してスクールバスを運転してきたもの(金融資本の運営者)へ、再度、スクールバスの運転を許してはならない。」

「壊れてしまった卵でオムレツを作るように、これまでの資本主義のスキームの立て直しを図るのではなく、資本主義バージョン2.0としての新しいスキームの元で、金融資本主義の立て直しを図らなければならない。」

亀井金融担当大臣の提言の意図の根底は尊重すべき

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:39 AM

亀井金融担当大臣のモラトリアム(ローン返済猶予)構想が波紋を呼んでいるが、金に困っていなさそうなテレビ・コメンテーターのもっともらしい薀蓄には、ちょっと、辟易するものさえ感じてしまう。

私は、モラトリアム・スキームの詳細の検討についてはしっかりやっていただきたいが、やはり、亀井金融担当大臣が今回の提案をするにいたった意図の根底には尊重すべきものがあると思う。

それは、竹中金融担当大臣の時に、決済機能の回復のみを旗印にして、金融機関をBIS規制遵守で萎縮させた結果、末端借入者に何が起こったのか、ということについての時代検証の必要性でもある。

マクロ経済において、地価が下がり、担保割れがおきれば、担保対象不動産を処分しても、残債が残る。

金融機関にとっても、多少の返済猶予の貸し出し条件変更に応じたほうが、結果回収できる実入りは多かったはずである。

しかし、BIS基準に基づく金融庁の検査強化に恐れて、金融機関は、表面上の不良債権をいかに少なくするかに没頭し、貸し剥がしによって、まだ生きるかもしれない借り手をどうしようもない状態にしていったのである。

親鶏を早々と殺しておいて、卵で返せ、と、迫るのとおんなじ、無茶な論理である。

つまり、銀行は、自己資本比率維持のため、その「分母」となる総資産の圧縮を、不良債権の売却、貸し渋り、貸し剥がしによって、圧縮させていったのである。

地価が下がり、デフレが進行すれば、既往貸出の無担保比率は、当然向上する。

しかし、その無担保比率の向上自体が、銀行に必要とされる自己資本の増大を招いていく。

追加担保徴求が不可能であれば、銀行としては、分母を切っていくしかなくなってしまう。

公的資金注入には、名乗りを上げる勇気が当時の金融機関になかったことが、これらの末端借入者へのしわ寄せを一層よんだと見ていいだろう。

つまり、マクロでの地価下落分が、玉突き衝突的に、末端の借り手の残債となって、残ったという構図である。

今回の亀井提案は、あまりにダイレクトすぎる提案であるとはしても、もっと、いろいろなポリシーミックスをすることによって、今、モラトリアム提案に提示されているいろいろな懸念は払拭できるものと思われる。

たとえば、今回のアメリカの金融危機で、なるほどなと思ったのは、アメリカは、金融機関の必要であるないにかかわらず、当初の段階で、公的資金注入を全金融機関ほとんどに強制的に割り当てたことである。

このことで、公的資金を受ければ信用収縮の風評被害が出るという、金融機関の懸念が払拭されたのである。

それと、必要と思われるのは、残債を損きり・免責することで、金融機関がメリットを受けられるような、インセンティブを、マクロ的に政策のなかに盛り込むことである。

現在、金融機関は、回収不能債権を系列のサービサーに投げることによって、損きりが確定し、整理損や貸付金の否認分を繰り延べ税金資産にカウントすることで、未収還付事業税を納入し、負債整理の決着が付くことによって、税効果会計による高率の還付加算金つきで返ってくるというメリットが得られる。

金融機関のサービサーへの債権譲渡の際の卸値は、ものによっては、10分の一以下、平均、5%程度といったもののようである。

しかし、その売却債権の仕入れ値は、一切、金融消費者たる債務者には、明らかにされていない。

債権譲渡された債権者からは、そ知らぬ顔で金融消費者たる債務者への請求が来る。

まるで、中古のジャンク同様のテレビをそ知らぬ顔で、新品の値段で売ってくるようなものだ。

ここにおいても、債務者は、デフレの最後のつじつまあわせとなってしまっている。

債務者は、金融消費者であるという視点が、ここでは、すっぽりぬけ落ちているのである。

弱い金融消費者に対するデフレのドミノ的転嫁は、ここでもおこっている。。

そこで、今回の亀井提案を、より、精緻な形で政策に生かすとすれば、マクロ的に言えば、金融消費者としての債務者のセーフティーネットをどのようにきづきあげていくのか、ということになる。

ちょっと考えただけでも、金融機関が損きりをしやすい税制面での環境作り、金融庁の金融機関検査基準の緩和、金融機関の金融消費者としての借り手に対する、サービサーの仕入れ値の公表の義務付け、譲渡債権の仕入原価公開主義に基づいた債権請求の遵守、などなどが必要になってくるものと思われる。

ブラックスワンの著者で有名なナッシム・タレブ氏は、次のようなことを言っている。

「これまで目を隠してスクールバスを運転してきたもの(金融資本の運営者)へ、再度、スクールバスの運転を許してはならない。」

「壊れてしまった卵でオムレツを作るように、これまでの資本主義のスキームの立て直しを図るのではなく、資本主義バージョン2.0としての新しいスキームの元で、金融資本主義の立て直しを図らなければならない。」

内需振興と貿易保護主義を結びつける自国通貨安という構図

Category: 未分類 – Tatsuo Sasayama 10:37 AM

G20で、内需振興の方向での合意ができたといえ、いったい、今、世界のどこの国で、本気になって、内需振興を志向している国が、日本以外にあるのでょう?

内需振興とプロテクショナリズムとは、アメリカにとっては一致しているが、アメリカ以外の国にとっては、どうなのだろう?

バイ・アメリカンで割を食らうのは、アメリカ以外の国、バイ・ジャパンで割を食らうのは、高い消費資材を買わせられる貧乏人。

って言う構図なんでは?

G20では、そもそも、かってに違う概念で、内需振興に合意していたのではないのでしょうかね?

このような指摘は、アメリカにもあるらしく、このサイト「GRISWOLD: Obama’s protectionist policies hurting low-income Americans」では、オバマ政権のバイ・アメリカン政策は、安いタイヤや衣料しか買えない低所得者を直撃する、としています。

どうも、この一見格好のいい内需振興の言葉のコインの裏側には、バイ・アメリカンに追随させられるような言葉のあやがあると思うのは私だけでしょうかね?

各国が、今、どの主要国も、ビナイン・ネグレクト(慇懃なる無視)で、自国通貨安を容認しているのは、一方で、プロテクショナリズムを志向しながら、輸出条件を通貨安で、補おうとしている、そんな思惑が働いていると見るのは、意地悪すぎるでしょうかね。

つごうのいいプロテクショニズムを志向する一方で、自国通貨安を志向することで、一見大儀に見える内需振興というパラメーターは、、見事に、プロテクショニズムの別のキーワードに合成されてしまうのです。

自国通貨安をパラメーターにしての、不可逆的なプロテクショナリズムの志向というわけです。

G20の中で、一番バカ正直に見えるのは、内需振興と円高容認とを、まさに寸分違わない平仄したスタンスで主張している日本だけ、と、みえてしまいますね。

だったら、内需振興を言うのなら、堂々と、バイ・ジャパニーズを主張すればいいじゃありませんか。

しかし、その結果生まれるのは、バイ・アメリカンですでにアメリカに生じていてるらしき、貧困者いじめの内需振興であり、プロテクショナリズムです。